与えすぎず、求めすぎず。

この数日、ずっと色々な事を考えてきた。
沢山の事を考えていた。苛まれていた。
自分で自分を傷つけたい、というのはこういう感じなんだろうな、という事も。(しかしながら、それは絶対にしない、するつもりもない)
出口のない迷路に自ら入った事を知っているのに、出口を探しているような、光を探して彷徨うような、そんな日々が続いている。それは自分のせいなのにね。
嘘はないつもりではいる。
しかし、与えるものがあるのだとしたらそれを押し付けていたのかもしれない。想いが思いすぎて歪んでしまっていた事も。
よいと思っていた事が困惑させていただけだという事も。
今思えば愚かしい事だとしても。とりかえしのつかないことになっていたとしても。
それでも、前に進んでいかなければいけない、という事も知っている。
これによって、実は成長しているという側面があるかもしれないことも、人は知り、分かってはいるのに、そちらに行ってしまう。
なんと愚かしいのだろうか。それでも、前に進んでいく。
進んでいく。
人は何かを行う事によって(他者に)与えたり、受け取ったり、求めたりする側面も持っている。特別にそうではないと思っていても、深層心理としてそれを感じているのだろうとも。自分の行動によく照らし合わせ考えてみる。受け取るは別にしても、すごくシンプルに考えてみる。
与える、与えない、与えすぎない。
求める、求めない、求めすぎない。
人は基本的な欲求として「求める」生き物だと思っている。
そう考えていなかったとしても、心の奥の中では実はそう考えているのも人である。求めない、という事は基本的にはありえない。
でも、求めるからこそ、求めないという事を改めて考えてみる。
与えるからこそ、与えないということを考えてみる。
与えるというのは、言葉的には少し傲慢な言葉にも思えるのだが、とても大きな意味で言えば、贈るとか捧げるとかそういう意味で考えればいいと思う。
そして、求めすぎない、与えすぎない、という事を考えてみる。
すると、いかにそれがバランスの上に成り立っているのか、という事を改めて思い知らされる。
節度の上に成り立っているのか、という事を考えさせられる。
いかにシンプルな事だったのか。そして、行動に改めて気づく。
とてもシンプルに、大きく接すればいいことに。
この数日、色々考えた事によって、「答え」はもちろん見つかっている。でも、その答えは結果とは「イコール」にはならないこともわかっている。今はどうすることもできないのかもしれないのだけど。
それでも、必要とされるのであれば私は助けてあげたい。与えたい(贈りたい)。(よいベクトルに向かう結果の作用として)求めたい。
進んで行きたい。でも、与えすぎない、求めすぎない(それは私のすることではない)。
その上で、「(たくさんの事象を含めて)生み出してゆきたい」。
きっとそういう事なんだと思う。
だから今も私はここにいる。難しいけれど、面白いものだと思う。
そうだね、面白いんだと感じてるんだろうね。
私は物事を真剣にしすぎる部分はあります。
ってか、この日記自体なんだよ、って感じじゃん(笑)
なんで、こんな事突き詰めるんや、みたいなね。それは良い所でもあり、悪い所。
息が詰まるような雰囲気にさせることもあるだろうし(でも、局面によって必要だけど)、誰もついて来れない場合もあったり。でも、私一人でやれることは少ないからね。この1年が実は今新しい事をし続けている過程の上で、色々悩んで自分でプレッシャーかけて、路を作ろうと必死になりすぎている事に、少し立ち止まって再認識したのかもね。立ち止まれ、って言われたのかもね。走り続けているから。
熱は程度を過ぎれば熱すぎて触れないという事。
もうちょっと肩の力を抜かないとね。休まなきゃね。
本当にそう思う。それでも、今のこの状態は人生の上で、これから生きていくうえでとてもとても重要な時期にあることもわかっています。
だからこそ、費やす、集中する。それは必然だから。でも、少しガス抜きをしないとね。
はい、重いまじめな話はこんな感じで。いい加減、このモードは終わらせなきゃね。
色々と気にしてくれていた人がいる事に改めて感謝します。
ちゃんと伝わってますよ。ひとりじゃないこと、わかってます。
ありがとう。


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