取り留めなく

今日のポストマンの二つ目の依頼が諸福中学。大阪府大東市の中学校。
いや、そこと別に関係ないんですが、幼稚園が近くの諸福幼稚園だったし、どこにあるかとかわかるわけです。
大東市って大阪府の中でもマイナーな市なんですよね。
南が東大阪、西が大阪市、東はもう生駒山で登れば奈良県だし、
北は寝屋川とか門真、四条畷という感じで駅名がそのまま市名になっているせいで意外に知られる市なわけです。(大東市は基本住道(すみのどう)が中心駅)大阪の人でも大東市ってどこぐらいかもしれません。 まぁ、小さい大阪府の中でも小さい都市なんですが。
でね、ここだけではなく、自分が生活してきた所、よく行っていた場所、いわゆる関係していた場所が最近よくメディアに出てるんです。
そういうものにたまたま触れると何か感慨深い訳です。
まぁ、最近高校の同級生に会ったことも関係あるだろうし、年をとったせいもあるのだろうし、今の環境も関係しているのかもしれません。自分の人生とは?今後進むべき路は、みたいな大げさな事を考えることも少なくはないのですが。
自分のバックボーンは?
本当に「骨」と呼べるべき事をやってきたのか?
いや、そもそもそんなものはあるのか?
と。
今までは振り返らずに進んできた生活だったりもしたんでね。 それを少しすくえば、経験とか実績とかは出てくるんでしょう。 でも、それらが自分を形成していたとしても、本当の意味での バックボーンでもないような気がします。
もっと根本的な人としての何か、を振り返らなければいけないような 時期なのかな、と想っていたりします。
ふと想ったんですが、今、そもそも人として当たり前の事が薄れちゃった世の中でもあるような気がしています。
携帯という便利な道具が普及したせいでたとえば電車の中でしゃべる人もいる。メールやゲームに夢中になっていて、出口をふさぐ、歩道でも通路でも使用しながら堂々と真ん中を歩いていてはっきり言って邪魔(そういう人は止まるか、端っこ歩けといいたい)だし。電車の中で堂々と化粧をする女性や公共という場所で騒ぐ人達も多い。 知らない人でも毎日歩いていていつも顔をあわせている人には挨拶したりするのって普通だと想うんですけど、どうやらそうじゃないみたいですね。
自己に対してのみの欲求が強く、周りの空気を読めない(あえて読まないではなく)人が多いような気がします。そう、便利になりすぎて、想像力がなんというか希薄になっているのかな、って。
それは最近の若い子はそういう躾とかバックボーンがないのかな、と想うのですが、残念な事に私たちより年齢が上の人達にもあてはまるんですよね。それは新しいツールに適応するために必死か、というとそうでもなさそうだし。そもそも、最近は当たり前の事とか他者に対しての意識とか「恥」という事がなんか希薄が気がします。日本文化は恥の文化、ってよく言われるんですが(あれなんでしたっけ?「菊と刀」だっけ?)、なんだかそういうものがなくなっている気がしてなりません。なんだかな、って想うこともしばしばです。
自分はなるべくそうなりたくないのですが、知らずに行っている事もあるでしょうから、常に意識しなくちゃいけないな、と。 意識って本当に大事だし、常に気を配るのってそういう事なのかもしれませんね。振り返ってる今だからこそわかることもあるわけですし。
もう10年、大東市には行ってませんね。
自分を知ったり見聞を広める旅も大事だけど、自分を振りかえる旅っていうのも別に引退してからじゃなくてその時々にあってもいいのかもしれない、って今は思います。それで気づくこともきっとあると思いますしね。


Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*


CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください